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2008年9月

いぬもあるけば。

なんなんでしょう、この寒さ。。。

 

まだ9月でしょーー?!

 

月末になり慌てて記事を書くka_akoです、こんにちは。

え?もう前の記事から一ヶ月・・?

早っ!!

で、なに?ここの背景も変えもうコタツですか?

 

早っっ!!

 

てか、

 

冬場このまま行く気だろ、おぃ!!

 

いやいや、そんな事ないない、

気が向いたら変える、うん。

 

と、一番アテにならない答えをしつつ、

 

犬も歩けば・・・・棒に当たる的、

最近の出来事を、ちょこっとご紹介。

※あっち(ミクシィ側)とかぶってるけど気にするな~。

 

■配達に向かえば・・・・ 

 

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採りたてピーマンを貰う。

 

 

 

もう最近騒がれる食品偽装も何処吹く風、

生産者から手渡し

素晴らしい。。。

わざわざ採ってくれてたんですって~嬉しいねぇhappy02

 

■道を歩けば・・・・

 

080928_060707  

 

ギンナンを拾う。

 

 

どうしようこの匂い。
でも一回は挑戦(格闘)したいギンナン・・。

好奇心買ったらスゴイ値になるはずという、

主婦根性に負けゲット。 

 

■車に乗ってみれば・・・・

 

 

 

 

080930_095105  

  何だこれ。

 

 

 

またあの男(旦那さん)はー!

と、叫びたくなりますのね、

一回昔もここで書きましたかね、

イキナリこんな状態になってる車の話を。

本当、何の断りもなくこういうこと行われております。
 

乗ってビックリです。

 

壊してるんだか直してるんだかよく分かりません。
自分で何でもやるのはいいんですけども、

普段この車使ってるの我々(ka_ako・子等)ですから。

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もうバック(R)なんだかドライブ(D)なんだか分からんのですが。

 

 

 

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シフトの所もこんなになってる・・・

 

 

 

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あぁ、ドアが開いてますか、そうですか。。。

 

 

 

    早く直してーーーー!!!

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山内一豊・千代(ドラマより)

 山内一豊(1546~1605)・千代(1556~1617)

もう関が原の5年後(9月20日とあり本当にほぼ5年後?)、
61歳で死去。一豊の死の翌日出家し見性院と称した千代、
一豊と同じ61歳で亡くなっています。

信長の馬廻り50石から秀吉の与力に。
たびたび合戦には行っていたもののさしたる武功はなく、
それが関が原後、土佐24万石の初代藩主に。

天正9年、京都で馬揃えをするので駿馬を引き集まるよう
信長が明智光秀を通して出した命令の一つだった。
この時、10両もの値のつく奥州南部産の名馬で、
信長の目を引いたのがこの山内一豊であり、
どうやってこの山内一豊が、
誰もなかなか手が出ない名馬を手に入れたのか。
しかしここから山内一豊は名声を得始める。

と、言う訳だが、この頃一豊の収入であれば、
10両くらいの馬は買えた、とも言われ、
ここで千代の話は作り話ではないか、とも言われる。

この千代が鏡箱から10両出し馬を買った話は、

  藩翰譜(はんかんふ)/新井白石、
  常山紀談/湯浅常山、
  鳩巣小説/室鳩巣(むろ きゅうそう)

にあり、これで話が広まったと言われる。

しかし、内助の功の鑑と言われる一豊の妻・千代。

山内家が50石から24万石までをどう歩んだかを、
ドラマでしたが、なかなか面白かったので、
追って見てみてください。(しっかり見てない日は話飛んでます!)

  朝8時からこんな番組が第1話          
  名馬の話第2話          
  本能寺の変~賤ヶ岳の戦い第3話           
  小牧・長久手の戦い~関白秀吉~聚楽第の完成第4話          
  秀吉の嫡子~唐攻め~殺生関白・秀次第5話          
  2度目の唐攻め~淀か北政所か?第6話          
  秀吉の死去第7話         
  光成と家康~上杉征伐~千代の手紙第8話          
  小山会議~関が原~そして。。。最終話

何分、ドラマであり小説であり、、、なので、
登場人物の詳細は定かではないのですが、
非常に判りやすく、大名へ上る姿が一話ごとに着々と。
これを山内一豊の項として、上げさせて頂きます。

※このカテゴリ内記事はka_akoの別ブログの(現在未表示)2006年の記事から移動してきたもの含む!で、このドラマは平日の昼間に再放送されてたものを見て書いたものです※

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伊賀越え

『神君伊賀越え』とも言われる、家康危うし!だった事件。

高松(岡山県)を攻めていた豊臣秀吉の後援の為、
京都・本能寺に織田信長が滞在中でした。
信長へ所領安堵のお礼も兼ね、信長の所に向かう家康御一行様。
堺を見物して、所用も済ませ、京都へ向かう予定でした。

6月2日朝、堺を出発。一行より一足先に本田忠勝が、
信長の所に家康が訪ねる事を知らせに出ていると、
途中、京の商人・茶屋四郎次郎に会い、ここで驚愕の事実が!
この四郎次郎も家康の所へこれを知らせに向かう所でした。

いわゆる、「本能寺の変」です。

これを聞き、家康は追い腹切ろうとしたそうです。
しかし、ここは思い止まり兵を持って光秀を討つ!と。

この時まさか光秀に向かうほどの兵など連れていません。
自分の身すら危ぶまれる状態でした。

 何としても自領に帰り、兵卒を揃えなければ!

そこで、難コースだけれど岡崎(愛知県)への最短コース、
「伊賀越え」を選択したのです。
この選択に難色を示した穴山梅雪(武田信玄の従弟)は、
今回家康と同様、信長にお礼を述べるため同行していましたが、
途中家康達と別れ、郷里の甲斐へ向かう別ルートを取りました。
しかし、その別れた数時間後には道々の村人達に襲われ、
命を落としてしまったそうです。

街道や要所は光秀達が既に押さえており、
信長を憎む者は、同胞である家康も同じ。
信長がああなった以上、今何があってもおかしくなく。。。

京へ行くと見せかけ、伊賀の山に入り、
伊勢の白子(鈴鹿サーキットの傍の?)から船で三河へ。
普通なら、ただでさえ山賊は出るような険しい山中を、
またこの状況下で超えるのは無理だと考える事だったでしょう。

しかし、6月3日には伊勢側に抜け、たまたま白子港に、
家康馴染みの海運業者の船がいました。
その廻船に乗り込み、翌4日早朝には大浜という所に着き、
翌5日、無事に家康は岡崎城に帰る事が出来ました。

この伊賀越えの際の功労者として、
先に出ました商人・茶屋四郎次郎(初代)という人。
伊賀といえば有名な服部半蔵を始めとする忍者集団。
この後も徳川幕府、家康に密着して行きます。

14日には兵を束ね岡崎を出発したようですが、
家康達が伊賀を抜けている間、
秀吉が戦地から驚くような速さで戻り(中国大返し)光秀を討ち、
お蔭で(?)秀吉の時代が訪れます。
家康からしたら、しばらく天下を取るのはお預け、という結果に。

しかし、いろんな意味で家康が関わっていた人脈がなければ、
家康一人では成しえなかった伊賀越えではなかったでしょうか。
何より、ここで伊賀越えを決断できた事、です。

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茶屋四郎次郎(初代)

茶屋四郎次郎」というのは、この家の当主が襲名する名。
伊賀越え時の四郎次郎が初代、清延(きよのぶ)。
なので「茶屋四郎次郎清延」(長いな)です。
元は小笠原氏の家臣として中島氏を称したとか。

↑から武家だったようですが、いつしか京の町に住み始め、
足利義輝が立ち寄り、ここでお茶を飲んだから「茶屋」と付いたとか、
清延の父が武士を辞め、高級茶屋を経営し始めたから、なども。

武将ではなく「商人」だったわけですが、
普段の生活用品から軍備、軍資金の調達、納入、
商人ならではの情報収集、偽装工作。
そして数々の名だたる戦にも自ら参戦していたようです。
よっぽど武士より急がしかったのでは!?

その情報収集力と行動力を最大限発揮したと言われるのが、
「神君伊賀越え」です。

6月2日に家康は、京に向け堺を出発していますが、
「本能寺の変」は同日の未明と言われています。
しかし茶屋四郎次郎は、この前日には京を出発していたとか。
このころ茶屋家は、京でも指折りの商家(豪商)であり、
大名相手に軍備類を納める立場、
また大名は、「政商」という商人を抱えているものだったようです。

そして家康の一行から先行していた本田忠勝に会い、
この「明智光秀謀反」を知らせる事となりました。

無事に家康を三河に帰すため、伊賀越えを勧めたのもこの人とか。

道中は、この四郎次郎が家康一行より少し先を行き、
金銭を使い「これは家康様から」と道々の顔役などに渡し、
家康を無事通すよう頼んで歩いていたみたいで、
途中での資金切れを考え、
京からお金を運んで来させる手配までしていました。
険しく、普段でも山賊の出るような伊賀の山を、更にこの状況下、
この手段で四郎次郎は家康を守りました。

そのかいあって、家康一行は伊勢側に抜け船に乗り、
無事三河に到着しました。

この恩を、家康は忘れませんでした。

徳川の世に移り、かつての様な仕事の必要性も、
その活躍の場もなくなって行きました。
これは槍働き一本だった大名も同じく・・・?

しかし、家康の四郎次郎への恩は、
幕府御用達の政商として江戸に呼び寄せられ、
茶屋家に莫大な富をもたらしました。
秀吉政権下の朱印船による海外貿易なども、
(↑この頃から茶屋家は自船で海外貿易を!)
家康政権後も、この「茶屋船」はトップ扱いされ安泰でした。

55歳で病死(1542~1596・天文11~慶長1)

時の茶屋四郎次郎(3代目)が紹介し薦めた料理のせいで、
家康が体調を崩し、そのまま世を去る事になってしまったとか。。。

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服部半蔵

名前くらい誰もが知っている、伊賀の服部半蔵その人。
実際は「正成」という名前であったそうで半蔵正成・・・か。
伊賀、甲賀者を束ね活躍し、「鬼半蔵」とも呼ばれ、
江戸城西口に「半蔵門」の名を残す。。。
家康の万が一の時に脱出をはかる門だったとされています。

家康がわずかな近臣だけを連れ、突然の事変により、
とんでもない状況になったあの時も、
危険地帯からの大脱出だった、かもしれません。

その時の近臣のなかに、服部半蔵もいました。
この「伊賀越え」は徳川家の正史でも伝えられています。

  伊賀だから半蔵にとっては庭も同然か・・・。

と、思っていたのですが、ちょっと事情は違っており
伊賀生まれとも三河生まれとも言われているうえに、
半蔵は「三河育ちである」というのです・・・・。
全然「庭」どころではなかったわけです。

そのはずで、家康の祖父・松平清康、父・広忠に、
既に半蔵の父親・半三保長(はんぞうやすなが)が、
伊賀を出て三河に住んで仕えていて、この保長の5男でした。

この伊賀越えを家康が決めた時、
伊賀の上忍御三家(なのか?)藤林氏百地氏に並ぶ、
服部氏の半蔵に仕事がないはずはありません!
が、しかし半蔵にとっては良く知る土地でもなかった事になります。
そこで、伊賀・甲賀に力のある多羅尾光秀という人に、
協力を要請します。そして300名ほどの忍者集団が!

幸いだったのは、
半蔵の父・保長を知る人達が協力してくれた事。
また前年、なんと信長がこの伊賀を攻めており、
その時ちりじりだった伊賀者達を家康が保護した経緯もあり、
家康の護衛についてくれる事になったみたいです。

豪商・茶屋四郎次郎が金銀で道を作る一方、
お金でどうにもならない相手には戦いながらの伊賀越え、
だったのでしょうか。。。
そして家康をこの危機から脱出させました。

その後、
信長と同じく秀吉も伊賀攻めを行おうとしたと言います。
それよりも早く家康は半蔵を伊賀につかわし、
伊賀者を配下に入れようと既に動いていました。
家康が関東に入ると、その配下におよそ200名。
半蔵が終結させた伊賀衆、戦国最強の忍び軍団の姿が。

敵への攪乱工作、情報収集、戦地の地形や陣営作り。
戦場に立つ武将に比べると、格下扱い!の忍び達ではありましたが、
その仕事による功績は大きかったと思われ・・・、
ここまでの数の伊賀者を配下にしたのは家康が初めてでした。
普段でもその技術を使い測量して道を作ったりしてたそうです。

1542~1596?家康と同じ年生まれです。
没年不明・・・となってる本などもあり、やはり『影の・・・・』
うーん、納得。

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