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司馬遼太郎の功名が辻・4

本日第4回でございました。

    小牧・長久手の戦いから、
    秀吉が関白に。

それに伴い7000石(現在の年収2億8000万?!)
更に関白秀吉が大阪に行くと、

    とうとう、2万石・長浜城主、大名に!!

山内一豊が長浜城主、これがどうも北政所の進言によるもので、
この頃からすでに淀君との確執を思わせる、と言うもの。
行く行くは、先の関が原にすら影響する人事であったようです。

この頃秀吉が既に茶々(淀)に入れ込んでいて、
淀が暮らした近江(元々浅井家だから京都寄りですね、確かに)
の武将を多く召抱え始め、尾張時代からの武将が減り、
そういうの面白くない、ようで。

で、戦に行かないで居留守役やら後援に回った一豊に、
こっちの方がお似合いです」と、
あっさりきっぱり千代様言ってました。。。

近頃、都でネズミを1匹も見かけない、
夜な夜なキジが狂い鳴く。天正地震(天正13年11月29日)が。
何やら胸騒ぎがすると千代が思っていたら、この天災。

  大事なよね姫をこれで亡くしてしまったようです。

その供養にと、千代は色とりどりの小袖を縫い始め、
それを京の町の若い娘に声をかけ着せては、渡していたようで、
これはすぐ噂になり、誰もが喜び受け入れる行為でした。
この噂は九州を平定中だった秀吉の耳にも届いたとか。
あの折り紙の「千代紙」の呼び名がここから来てるとか・・?

そして小牧・長久手の戦い以来、
尾張に引っ込んでいた家康が京にやって来ます。
そこで秀吉家康に、諸大名の居並ぶ前で、
自分にへりくだってくれないか」と、家康に頼みに出向き、
それで家康初めて秀吉に好感を持ったようで(?!)、
いきなり関白秀吉様である!とは言ってみても、
実質どこまでのものかを、家康のその態度で、
諸将に知らしめて欲しいという秀吉の思いを感じ取ったのでしょう。

その依頼のあった場で、
家康秀吉の期待以上のソレを見せました。

 是非ともその秀吉の着ている陣羽織をこの家康に下され、と。
 これはワシの鎧と同じであげられないと秀吉が答えると、
 もう関白様に鎧も兜も必要なく、それは仕える者に下され!

そんなこんな訳で、居並ぶ諸大名には効果抜群だったようです。

聚楽第が完成し、天子を招き、この天子様の次が秀吉である、
と世に知らしめる為の壮大な催しがありました。
この時、千代の縫った小袖も飾られる事になりました。
いわゆる「個展」のはしりで、千代が娘にコレを着せていた行為は、
言ってみれば「服飾デザイナーの売り込み」の様なものだった。
(と、ナレーションは語っておりました)

そして秀吉が言います。

  一豊は光成に知恵も及ばず、武功は清正の指ほどもないが

       しかしこの嫁だけは誰も及ばず、と。       

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