« 司馬遼太郎の功名が辻・4 | トップページ | 司馬遼太郎の功名が辻・6 »

司馬遼太郎の功名が辻・5

本日第5回で。
(何か出来事があると文章長くなってしまいご容赦下さい・・・)

天正17年5月秀吉(54歳)に嫡子が!淀君鶴松を出産。
意気揚々と天下統一に向け関東・北条家に攻め込みます。

この時一豊は秀吉の甥、豊臣秀次下で働く事となり、
山内家の家宝だという槍を秀次は欲しがったようです。
断れましたが、ワガママな秀次の事が気に食わないご様子。
次々と拠城を落とし、難攻不落と言われた小田原城も、
秀吉得意の兵糧攻めで、3ヶ月程で落城。

関東平定後、家康は今までの所領の倍以上、
関東280万石を拝領!しかしこれは家康を遠ざける為。
更に家康~秀吉拠点までの街道筋に見張りの為諸将を配置。
その中に一豊の掛川6万石(現在の24億!)も。
280万石で渋々の家康、6万石で大喜びの一豊様でした。

天正19年、鶴松が2歳で亡くなります。
秀吉は髷を切り落とし、それに諸将も倣っていました。

そして秀吉、次は「大陸!」と唐攻めに踏み切ります。

一豊はこれには出ず残留組。ちなみに家康も残留でした。
触れてませんでしたが、遠征の裏方をソツなくこなしつつ、
この間に家康が国内で力を蓄えられた訳です。
残留でよかったと千代は言います。
出兵にかかる費用やあらゆる疲弊を考えると、
どの武将にとっても得な事はなかったはずです。

その間、一豊は秀次に仕えてみれば、
源氏物語も読んでないのかと、(学問は深かった模様)
一豊達に耳の痛い事ばかり。戦ばかりゆえ・・・と返せば、
武功のない秀次へのあてつけで、武人気取りかと・・・。
家へ帰り千代にこんなだった!と秀次への文句をぶちまけます。
が、ここはひとつ押さえます。
会った事もない人の事について一緒になって言ってしまい、
ここで旦那様を増長させてはいけないのです、って事で。

が!秀吉が関白職を、この天正19年の12月に、
あっさりこの秀次に譲ってしまいました!

そして一豊ではなく千代に呼び出しがかかります。
この頃既に、才色兼備と名高い千代に向かって、
10両で馬を買ってやるなど浅知恵!と秀次は罵ります。
千代も負けじと(?)

「名だたる武将の縁の武具を買ってらっしゃるそうですが?」

関白も名や評判を上げる同じような事してるでしょう?!と。

秀次の前ではこれくらいで押さえ、家に帰ると、

「あの程度の男に腹を立てる一豊様が大人気ない!」

しかし、秀吉は関白を譲った事を後悔していました。
秀次はかなりの暴君で、ワガママな人くらいではなく、
「殺生関白」と呼ばれたその所業は酷いものでした。

そして、これが分かっていたなら、関白の座は・・・。
秀吉57歳、淀との間にお拾い(後の秀頼)が生まれ、
秀吉はこの子に、いきなり大阪城を譲ります。

またそんな折、一豊夫妻は呼び寄せられ、
千代を秀次の側室によこせと信じられない話をされます。
一豊は断じてお断り!したのに千代がこの話を受けます!!
あの秀次が山内家に何をしてくるか分からないから?
とは言え準備もございますから、と日時は決めず帰ります。

   きっと、秀次は関白を追われる
   それまでこの話は理由をつけて伸ばし伸ばしに。
  一豊様は何があってもいつも通り実直な一豊様で。

秀吉はもう秀次に怒りまくっています。
伏見城に呼んでも一向に出向く様子もなく、
京の町は異変が起きている程。秀次謀反の噂のせいです。
もし本当になれば、千代は真っ先に人質として狙われるでしょう
(と、言う事は一豊は謀反に加担させられことになる?)
千代は秀次に捕まる前に、一足先に移動したようです。

一豊は最悪の時は秀次と刺し違える腹で聚楽第に向かい、
秀次に秀吉前に出向くよう諸将達と一緒に秀次と相対します。
この頃の一豊は、もう秀次が不憫で仕方なかったようです。

この数日後、秀次は切腹を命じられ、
そして秀吉はこれだけに終わらず、
この秀次に関わる妻妾、子供まで三条河原で惨殺しました。

豊臣家滅亡への不穏な空気が漂い始めた頃です。

|

« 司馬遼太郎の功名が辻・4 | トップページ | 司馬遼太郎の功名が辻・6 »

映画・テレビ」カテゴリの記事

気が向けば武将」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/51359/43343425

この記事へのトラックバック一覧です: 司馬遼太郎の功名が辻・5:

« 司馬遼太郎の功名が辻・4 | トップページ | 司馬遼太郎の功名が辻・6 »