気が向けば武将

2月になってるし。

小寒い日が続いておりますが、
とりあえず、家の中が寒くて鼻が垂れる
程度で、じりじり周辺でも流行ってきております、
インフルエンザなんかもまだ我が家には襲来せず。
 
 

というか、来てもらっても困る
 
 

しかしもう2月ではないですか!!
何やってたんだ一ヶ月!!
 
 

 

つーか、大河見てた。
 

 

 

という事で、久々に、この、

「気が向けば武将」(そんなのがあったんだよ)カテゴリーで、
 

まだ4,5回の放送分内で思った事など少々。
  

主人公の官兵衛の方は、今のところ播磨の一家老で、 
活躍するというか良い頃といえば、秀吉と組んでる頃なので、
もう少し後になるだろう。
 
 

して、ドラマ中で、勝手にツボにはまった点など少々。
 
 

 

★13代将軍・足利義輝暗殺シーン
 

ものの1分あったかどうかって長さで、
その頃起こった事件の回想シーンだったのだが、
畳に突き刺された刀を見て「おぉ」と思ったらマニア?
 
 

ドラマ内の15代の義昭の方は、
信長自身が足利幕府とか将軍とかどうでもいい、
って感じだし、ジタバタするだけしてても、
なんだかんだ殺されることはなかった。

13代・義輝は剣術が大好きで、実際相当の腕前で、
この時、御所にやってきた刺客共を相手に、
手持ちの名刀を畳に刺して、敵を切り捨てては、
切れ味が落ちたら次の刀!と応戦したという場面だ。
終いには皆で襖で押さえ込んでやっと仕留めた、
という所まで再現。
 
 

官兵衛が現場にいなかったとしても、
名エピソードの再現シーンには今後も期待。
 
 

 

★母里太兵衛が酒を飲むシーン
 

「では殿の代わりに」と酒を飲む場面があったが、
後に、大酒飲みだったと言う福島正則に、
「これ飲み干したら好きなものあげる」
なんて席で、その酒を飲み干して、
「日本号」という名槍を持って帰ったそうで、
「あれはイカン!」と後で返してくれるよう頼んでも、
返さなかった、という話があるようだ。
この槍は福岡市博物館にあるそうだ。
 
 

 

★配役に唸ってみた
蜂須賀小六:ピエール瀧/小早川隆景:鶴見辰吾
 
 

 

蜂須賀小六は、物凄い数の配下がいたらしく、
当時合戦があれば農民でも戦いに出たり、
雇われて合戦に行く傭兵のような地侍や豪族も多く、
そういう一家の頭領といった人で、蜂須賀は地名から。

墨俣城を作る時に秀吉が(このころは藤吉郎)、
小六らが率いる地侍に、周囲の警護を依頼、
幾度と失敗した墨俣城を完成させた。
表舞台に出てくるきっかけはこの辺りで、
以後、石田光成が出てくるまでは、
家中の政事を全部仕切っていて、
中国大返しの時も毛利方に重要な交渉に出向いたり、
親分的な見掛けによらず(?)結構やってることがマルチな感じがぴったり。
 
 

 

小早川隆景毛利元就の子。
高松城水攻め時も秀吉との交渉役であり、
大返しの際、背後から秀吉軍を攻撃する事を止め、
後に秀吉から感謝され信頼も絶大。

毛利元就は、海の小早川家、山の吉川家に、
息子を養子に出し、各家の乗っ取りに成功
毛利本家をこの名門2家で支える体制にしてた訳で、
関が原の小早川秀秋はこの小早川家の養子。
 
 

それも、秀吉が実子を得てからというもの、
秀次はあんなことになり、
同じく秀吉の養子の秀秋も危ないってんで、
またどこか養子に出そうって毛利家にその話が来る。
普通なら、秀吉の子供=中央とのパイプみたいな所だが、
小早川隆景はこの縁組をしては毛利本家がいろいろマズイ、と考えたようで、小早川家の養子にしたいと申し出る。
この養子の話には官兵衛も絡んでるらしいのだが、ドラマで触れていただけるとありがたい。
あとは隆景の心配が的中する形に。

毛利宗家の為、知将であるがゆえの苦悩の人、
のような雰囲気がベストマッチに見える、うん。
 
 

 

官兵衛はまだドラマ内では、さわやか一家老といった感じだけど、これからいろいろあって、さわやかでなくなり、「こいつ・・・!」と思わせてくれる事に期待!

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司馬遼太郎の功名が辻・最終話

本日最終回でした。

慶長5年7月、大阪・石田光成×上杉征伐隊・徳川家康
東西分けての戦に向け、千代のいる大阪にも、
西軍の軍勢が続々集まっていました。その数10万。
徳川様は勝てるのかと・・・一豊を信じるしかありません。

一豊は、この戦で手柄を立てるには、
先鋒を受け賜るしかないと、小山軍議に向かいます。

この戦の発端は石田光成が秀頼の権威を借り、
上杉と結んだ謀反である。対、豊臣家・・ではなく。
そこで妻子を人質にとられ気になる者は止めはしない、
また自分の城に帰り籠城もよし、光成と合流するもよし

と、家康の寛容な申し出、ではありますがその真意は、
去る者はここで去れ、後で叩き潰してやるという事。

さぁ一豊!今だ!

という時に福島正則第一声!を、

続けて黒田長政が・・と皆が「内府殿にお味方する!」

そしてそのまま福島勢が先鋒に決まってしまいます。

そのあと、一豊・・・申し出ました、ぜひ山内に先鋒を!

しかし山内家、6万石で過酷な先鋒は・・・と、
皆反応イマイチ。。。

が、そこで一豊言いました。

 

  「掛川城、領地、すべて家康殿に預けます」

 

これは凄い事で一同も驚き、京への道中である掛川城の、
兵糧米、城、領地、全てご自由にお使い下さいという事。
これを聞いた東海道筋の城主は「家も、家も!」と声をあげ、
この第一声をかろうじて上げた・・・事に

その頃、

京の山内邸は石田勢の兵に包囲され、
千代たち家の者も、出入りもままなりませんでした。
が、小りんが軍議での一豊の様子↑を伝えました。
それは一豊様にしては大博打ですねと千代はにっこり。

芳野始め旧来の家臣・祖父江新右衛門は、
山内家は無一文という事ではないですか」と驚愕。。。

  戦に負けてしまえば一豊様も討ち死にか切腹
  城や領地など全て失うものだから気に病む事もない

他大名の妻子が大阪を捨てる中で大阪に居る千代です。
その山内邸から東の空が赤く・・・伏見城(家康勢)が

東西天下分け目の関が原の戦い

山内勢は後方に置かれ・・・功名を得る機会はなく・・・。

戦に勝利し邸に帰った一豊に皆が戦の様子を尋ねます。

 

  まさに天下分け目であった!関が原の霧が晴れ、
  ほら貝が鳴り響くと、先鋒の福島隊が宇喜多隊に・・・

 

      で、その時殿様はどちらに?!

 

        わしは後方じゃ。。

  そして味方の形勢が悪くなり、そのとき小早川隊が、
  一気に山を下りて・・・・

         これほどの戦は初めてじゃ!

 

 

   じゃ、その時殿様はどちらに?!

 

 

     わしは・・・

      後方で・・・、

    

     進んだときには戦は終わっておった。。。。

 

 

 皆がやっぱり山内家は無一文になる・・・とがっくり。。。

 

そして、関が原の恩賞の沙汰が各大名に知らされ、
福島殿、尾張24万→安芸・備後49万石!と聞き、
これはあの時の第一声の功名だと一豊は思いました。
それなら城を差し上げると言った自分は・・・と期待

 

しかし、山内家への沙汰はなかなかありません。

 

そんな頃、千代は静かになった大阪の街を楽しんで、
小雀(こすずめ)」という若者に飯代を貸せと声をかけられ、
代わりに小りんと望月六平太を探してくるよう言います。
この二人はドラマ中、千代の周りに居た甲賀者。

 

山内家へのご沙汰はまだまだありません。
一豊は家と大阪城を行ったり来たり。

 

また、京の町で祖父江が旧友に会い、
キチベエの忘れ形見がいるらしい」と聞いてきます。
貧乏公家の後家を母に持つ子」がキーワードで、
このキチベエさんは、第一話で一豊の頬の矢を、
一豊の顔をふんずけて引っこ抜き、そのあと、
一豊がもう浪人になりたくなった戦で討ち死にした家臣。
皆が大好きだった人で、何としてもその子を探す事に。

 

なかなか沙汰がないので嫌気のさした一豊、

 

酒を飲んで泣き、勝つも負けるも人の一生など儚い、
関が原で負けた者、死んだ者の為に千代も泣けと。

それでも千代は、私は豊かな半生でしたと答えます。

終いには、夢を叶えられなくてすまないと謝ります。

しかし、女房にすまぬは要らない

 

一国は与えられなくとも、人を育てた功名があります
こんな時でもこの山内家を離れる者はおりません

 

このまま沙汰がなければ、と後の事を朗々と語り、
田畑でも耕し、私が小袖を縫い売って暮らせばいいと。

かつての所領、掛川城も家康親類の大名に。

その方の人柄を聞き、それなら掛川の領民も安心だと。
しかし、これで旧領安堵の道も閉ざされました

 

小雀」が小りんの居場所を告げに来ました。

と、同時に、
この若者が探していた若者だったと判明します。

この名前は、自分の父が、
俺の顔はすとんと転んだ慌て者のスズメに似ている
とよく喜んでいて、だから母がこんな名前をつけた、と。

の事は昔千代が戦場の一豊に送った手紙に書いた事
たわいのない話を書いて陣中に送る嫁で実は有名だった?

更に、一応形見だと持っていた矢じり(矢の先の金具)
その父が殿様の顔を踏み付けて引き抜いた時のものだ、と。
山内家はこの若者を登用しキチベエとの約束を果たします。

 

小りんが逝きます。忍びの時代が終わったかの様に。
おなじく六平太も、既に世を去っていた事を知ります。

 

一豊は大槍を構え「鍬の練習じゃ!」と、いつもの一豊に。

そしてとうとう、

家康からの沙汰が・・・・

 

   山内一豊・土佐24万石!大大名です!!

 

あの時の城を明け渡す申し出、開けずに見せた手紙、
戦での槍働きの手柄に勝る功名と家康が絶賛。
ただ、この地は治めにくいかもしれないが、
山内家(一豊・千代)なれば務まるに違いない、とのこと。

いや、どんな土地でも禄高でも喜んだと思います。
おそらく想像をはるかに超えた沙汰だった気がします。

山内家では「さすが我らが殿様じゃ」と大喜び。

一豊はこれは女房運だといい、千代の運だと。

千代は私のつまらぬ一言が一豊様で膨らんでここまで来たと。

長年苦労を共に連れ添った夫婦の貫禄と言いますか、
ドラマ通して、この宅間伸さんの一豊のかわいい事と、
壇ふみさんのほとばしる様な賢妻オーラが、
まさに一豊と千代だろと言った感じで面白かったです。
24万石!と画面一杯の文字には笑いました。

と、ドラマはここまでだったのですが。。

この時から山内家は300年もの間名を残し、
その土佐は坂本竜馬、板垣退助など輩出します。

ドラマのサブタイトル「夫を成功させる法」でしたが、
いかがだったでしょうか。。。

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司馬遼太郎の功名が辻・8

第8回、また長くなり候。秀吉の死後、
囁かれるのは石田光成、徳川家康討伐。。。

秀吉に育てられたはずの、福島正則加藤清正は、
真っ先に徳川に付き、周りも混乱します。
とにかく尾張出の武将は光成が気に食わず、
また戦での槍働きもせずに、五奉行筆頭となり、
戦での武功を少しの恩賞評価にされたりと、
すべて光成憎しの一念だったかもしれません。

が「まことの話か?」と光成に尋ねます。
「根も葉もない噂。とは言いません」と、
近頃の五大老筆頭の家康の行動などは、
秀吉の決めた約束事を破り、秀頼をバカにしている。

さぁ、山内家はどちらに付く?早く決めねば!!
と家中大騒ぎですが、千代に言わせれば、
ゆっくりお決め下さい。どうせ6万石なんです。
 どちらもそんなにアテにはしてないでしょう

と、一同それもそうか・・・・の様な。

ただ、先にしかける方より、万全に体制を整えた方へと。

そんな噂の中堂々と、大阪城に現れた家康

そしてその年の年始の行事はおかしな物で、
まず幼い秀頼に挨拶・・・・もそこそこに、その後、
同じ大阪城にいる家康の所へ皆が走るのです。
そこで家康は一同に向かい、
戦の準備をなされよ」と述べます。
先を読んでなければこんな事言えないでしょう。

これで一豊は徳川に付く事を決めます。
家康を「6万石を預けるに値する男だ」と思いました。

勿論千代に異存はなく、この頃家康が、
上杉征伐に五大老筆頭として出陣」で兵を集めます。
千代は屋敷が手薄になるのも構わず皆連れて行かせます。
その時「掛川城兵糧米は2年分蓄えてありますか?
と、千代は一豊に尋ねます。ソレを聞いた一豊は、
3年分蓄えておいた!」と得意げに言うと、

 ではそれを一粒も残さず家康様に出しなされ

  ぜ、全部か?!と、うろたえる一豊に更に、

 掛川城を宿舎にする時は本丸を使ってもらうように

徳川と決めた以上やるだけの事は全てやるのです。
そして一豊は戦だけに集中するように。
一豊も一豊で、軍勢分の草鞋を用意したり、
掛川城の兵の持つ長槍を見て「棒を持たせよう」と。
家康もこの方が安心だろうと。さすがの心配りで。
これに家康は大いに感謝し、一豊の人柄を褒めます。

一方大阪では、石田光成が家康討伐を掲げ挙兵
こちらと上杉で徳川勢を挟み撃ちにすると言うのです。

当然、山内邸にも「家康討伐、光成に加勢せよ
などの内容の書状と供に使者が。
千代達は人質として住まいを出るように言われますが、
主人の返答を待たねば出来ない」と突っぱねます。

この話は有名で、
この書状を開封せず(血判で閉じてあった様子)
一豊に宛てた手紙と2通、状挟みという板に挟み、
更に事情を説明した密書を使者の笠の緒により込み
(なぜかドラマでは小りんが使者に)
密書だけを一豊に見せ、あとはそのまま家康に渡すとし、
光成勢が関所を押える中、関東の一豊に使者をだしました。
先に開封して中身を見て、どうのこうのでは、
徳川様に味方するとした以上面目が立たないのです!

関東では、一切京の様子が判らず、
誰か帰れ!と一豊は旧来の家臣を千代の所に帰します。

その頃京で、人質を拒んだと言う細川家から火が上がり、
関東から戻らされた旧臣も到着。少し心強くなりました。
その火事の詳細を知った千代は家もこれを使おう、と。
(細川ガラシャの最期の模様だったのでしょうか・・・?)

また千代に人質を強要しに手勢付きで光成の使者が。
奥に通された使者の一行は、各所に積まれたワラの束
そしてその束の上に油の入った壷と座る千代
まだ関東の一豊より返答が来ない。勝手な事は出来ない」と、
どうしてもと言うなら使者もろとも、ここに火を付けます
と、言って追い返し、催促はなくなりましたと・・・。

無事、千代からの手紙一式は一豊の元に届き、
指示通りそのまま家康にそれは届けられ、

未開封を確認した家康は、

光成からの使者が持って来た書状で事態を知り

一豊に宛てられた手紙は一同の前で一豊に読ませました。

これがこの時の京の様子を伝えた第一報となり、
光成の挙兵、工作。そして山内家は徳川につく事を明白にし、
千代の心意気と共にこの情報は関東勢に伝えられました

この大決戦を前に、本当に徳川で勝てるのか。
家来の間ではそんな気持ちが残ります。

勝算などない。徳川に尽くし、我々の手で勝たせるのだ。
そのつもりで働き、家運を開け。
と、一豊はこの一戦に山内家を賭ける所存で、
兵卒の働きにはその者、残る子、家族、親類に至るまで、
この一豊が必ず守り立ててやると家来の士気を上げました。

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司馬遼太郎の功名が辻・7

本日第7回。
慶長3年、秀吉による盛大な花見が催され、
まるで秀吉の騒ぎ納めのようだと、千代一豊は心配します。

この頃千代は一豊に対し、一つの考えを持っていました。

それは、一豊に側室を作り世継を産んでもらう事でした。

当時の嫁の務めは、まず世継を産む事。
子がなければ側室を妻が勧めるのは当たり前のことで、
この頃の千代が言い出すには遅いくらいでした。

千代には複雑でしたが、自分に子供が産めなかったという負い目。
それと一から世継をこの手で育てたいという思いからでした。

そこで仕える腰元の中から側室を選んで、
千代はその間一月ほど寺参りなどして来ますと気を遣ったものの、
残った者はあの手この手を使い、一豊もとうとう・・・。

帰った千代に「お勤めはいかがでしたか?」と聞かれ、

傍妾役に当たった腰元は「お暇を下さいませ」と頭を下げ、

  「もうこの人(一豊)にお暇とらせなあかんがね!!

と、芳野(これが樹木希林さんで、千代の乳母)に、
ど叱られる始末だった模様。

この山内家は千代と二人で作った家であって、
千代以外の産んだ子に継がせるのは納得行かない。
一豊の甥を養子に迎え、その子を世継とする事にしました。

↑の期間、千代が山内邸を離れている間、
辺見えみり扮する小りんという娘が同行。
始め間者として一豊に近付き、それから周りをウロウロしてる忍。
千代に会って改心、山内家で働き中・・ってドラマでは進んでます

その小りんが、千代に
千代様が男だったらとっくに100万石取りの大名になれたのに、と。
しかし千代が、
主人である一豊を育てながら一国一城の主にする事は確かに大変、
しかしその喜びや達成感は自分がそれを成すよりも嬉しい事。

の、様な内容のやり取りがありました。。。

千代のヤキモキした気分も晴れた頃、
5月の端午の節句の行事の最中かに、秀吉が倒れ・・・、
続く6月の行事中まだ死にとうないと皆の前で幼い秀頼にすがり、
ひたすら「残される秀頼の事をよろしく頼む」と、
五大老に宛てた手紙を自ら書き遺し、慶長3年8月18日夜、

           秀吉死去。

   一豊や千代の青春は、この秀吉と共にありました。

   また戦国の世が、戦がおこり、世は乱れましょう

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司馬遼太郎の功名が辻・6

あの三条河原での惨状は、
秀吉への不満をつのらせた者も少なくなく、
京の町に立て札やビラが多く見られるようになります。
民衆の精一杯の反乱のようなものです。

本日、第6回はこの様子から始まりました。

2度目の唐攻め決定で、また一豊は残留でしたが、
出兵する大名は遠征資金、また兵の恩賞なども自腹、
居残る一豊達も、京に邸を建てるよう命が下りました。
それも秀次の件以来忌まれた聚楽第の様な邸をと。
この大名の金蔵を空にし、力を奪うような策に、
どの大名も不満を抱くようになっています。
すべては淀の産んだ秀頼(まだ5歳ほど)の為です。

千代も美濃へ、また一豊も掛川へ金策に。
その一豊が留守中の京・山内家に秀吉が現れ、
千代とひと悶着起こしますが、事なきに終わりました。

そして千代淀君からお呼びがかかりました。
一豊も心配します。これに赴くと言う事は、
世話になっている北政所への裏切りとも取られ。。。
千代の縫っている小袖の話などをしたいという事で、
千代はこれに応じ、行く事に決めます。
これくらいの事で、北政所様はお怒りになどならない、
と、いう思いもあったようです。

こういう事情下になると、
訳の分からない人が権威を持ち振りかざす様になる。
そういう人達を千代は面白く思っていませんでした。

   威張っていいのは、
   豊臣家の為に今まで戦ってきたこちら側

このの周りにはそういった権威を着る女官達で溢れ、
千代はここでわざと失礼な事ばかりをして、言います。

 淀を待つ最中なのにトイレに行っていいかとか、
 小袖など着けず裸でも十分淀様は綺麗だろうとか、
  ここでは持って帰るべき菓子を食べようとしたり・・・

  ちなみに現在の振袖の袖の長さは、千代の小袖からだそう

が、やはり今回声がかかったのは淀に付く様にの意味が。
そこで淀の傍にいる大蔵卿(字が分かりません)という女官に、
(この頃の石田光成と勢い同じとするほどの実力者

      おにばばぁ

と言った為、(↑みたい、と言っただけですが?)
秀頼が生まれてから面白くない思いをしてきた諸将は、
これは快事なり!と、困惑の一豊に絶賛します。

これで千代はどちら側なのかはっきりさせました。

これで、一豊には女はもっと慎め、と言われますが、
一豊様ももうどちら側なのかはっきりさせないとと。

今豊臣家は、北政所か決めないと居られず、
そしてこの女二人が豊臣家の未来を握っていたのです。

その3日後、北政所から「普段着で」と千代にお呼びが。
向かえば、頭に手ぬぐいを巻いた・・・それこそ、
足軽の娘時代の「ねね」を思わせる北政所が迎えました。

奥に通されれば、なんと秀吉がおりました!

一豊の留守中に千代の所へ行ったのがばれて、
お仕置きをされていると言うのです。
そして千代に手を付いて誤りなされ、と。
「どうじゃ千代殿、これで許してやっても良いか」と。

これで千代は、

  自分の選択が間違ってなかったと確信します

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司馬遼太郎の功名が辻・5

本日第5回で。
(何か出来事があると文章長くなってしまいご容赦下さい・・・)

天正17年5月秀吉(54歳)に嫡子が!淀君鶴松を出産。
意気揚々と天下統一に向け関東・北条家に攻め込みます。

この時一豊は秀吉の甥、豊臣秀次下で働く事となり、
山内家の家宝だという槍を秀次は欲しがったようです。
断れましたが、ワガママな秀次の事が気に食わないご様子。
次々と拠城を落とし、難攻不落と言われた小田原城も、
秀吉得意の兵糧攻めで、3ヶ月程で落城。

関東平定後、家康は今までの所領の倍以上、
関東280万石を拝領!しかしこれは家康を遠ざける為。
更に家康~秀吉拠点までの街道筋に見張りの為諸将を配置。
その中に一豊の掛川6万石(現在の24億!)も。
280万石で渋々の家康、6万石で大喜びの一豊様でした。

天正19年、鶴松が2歳で亡くなります。
秀吉は髷を切り落とし、それに諸将も倣っていました。

そして秀吉、次は「大陸!」と唐攻めに踏み切ります。

一豊はこれには出ず残留組。ちなみに家康も残留でした。
触れてませんでしたが、遠征の裏方をソツなくこなしつつ、
この間に家康が国内で力を蓄えられた訳です。
残留でよかったと千代は言います。
出兵にかかる費用やあらゆる疲弊を考えると、
どの武将にとっても得な事はなかったはずです。

その間、一豊は秀次に仕えてみれば、
源氏物語も読んでないのかと、(学問は深かった模様)
一豊達に耳の痛い事ばかり。戦ばかりゆえ・・・と返せば、
武功のない秀次へのあてつけで、武人気取りかと・・・。
家へ帰り千代にこんなだった!と秀次への文句をぶちまけます。
が、ここはひとつ押さえます。
会った事もない人の事について一緒になって言ってしまい、
ここで旦那様を増長させてはいけないのです、って事で。

が!秀吉が関白職を、この天正19年の12月に、
あっさりこの秀次に譲ってしまいました!

そして一豊ではなく千代に呼び出しがかかります。
この頃既に、才色兼備と名高い千代に向かって、
10両で馬を買ってやるなど浅知恵!と秀次は罵ります。
千代も負けじと(?)

「名だたる武将の縁の武具を買ってらっしゃるそうですが?」

関白も名や評判を上げる同じような事してるでしょう?!と。

秀次の前ではこれくらいで押さえ、家に帰ると、

「あの程度の男に腹を立てる一豊様が大人気ない!」

しかし、秀吉は関白を譲った事を後悔していました。
秀次はかなりの暴君で、ワガママな人くらいではなく、
「殺生関白」と呼ばれたその所業は酷いものでした。

そして、これが分かっていたなら、関白の座は・・・。
秀吉57歳、淀との間にお拾い(後の秀頼)が生まれ、
秀吉はこの子に、いきなり大阪城を譲ります。

またそんな折、一豊夫妻は呼び寄せられ、
千代を秀次の側室によこせと信じられない話をされます。
一豊は断じてお断り!したのに千代がこの話を受けます!!
あの秀次が山内家に何をしてくるか分からないから?
とは言え準備もございますから、と日時は決めず帰ります。

   きっと、秀次は関白を追われる
   それまでこの話は理由をつけて伸ばし伸ばしに。
  一豊様は何があってもいつも通り実直な一豊様で。

秀吉はもう秀次に怒りまくっています。
伏見城に呼んでも一向に出向く様子もなく、
京の町は異変が起きている程。秀次謀反の噂のせいです。
もし本当になれば、千代は真っ先に人質として狙われるでしょう
(と、言う事は一豊は謀反に加担させられことになる?)
千代は秀次に捕まる前に、一足先に移動したようです。

一豊は最悪の時は秀次と刺し違える腹で聚楽第に向かい、
秀次に秀吉前に出向くよう諸将達と一緒に秀次と相対します。
この頃の一豊は、もう秀次が不憫で仕方なかったようです。

この数日後、秀次は切腹を命じられ、
そして秀吉はこれだけに終わらず、
この秀次に関わる妻妾、子供まで三条河原で惨殺しました。

豊臣家滅亡への不穏な空気が漂い始めた頃です。

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司馬遼太郎の功名が辻・4

本日第4回でございました。

    小牧・長久手の戦いから、
    秀吉が関白に。

それに伴い7000石(現在の年収2億8000万?!)
更に関白秀吉が大阪に行くと、

    とうとう、2万石・長浜城主、大名に!!

山内一豊が長浜城主、これがどうも北政所の進言によるもので、
この頃からすでに淀君との確執を思わせる、と言うもの。
行く行くは、先の関が原にすら影響する人事であったようです。

この頃秀吉が既に茶々(淀)に入れ込んでいて、
淀が暮らした近江(元々浅井家だから京都寄りですね、確かに)
の武将を多く召抱え始め、尾張時代からの武将が減り、
そういうの面白くない、ようで。

で、戦に行かないで居留守役やら後援に回った一豊に、
こっちの方がお似合いです」と、
あっさりきっぱり千代様言ってました。。。

近頃、都でネズミを1匹も見かけない、
夜な夜なキジが狂い鳴く。天正地震(天正13年11月29日)が。
何やら胸騒ぎがすると千代が思っていたら、この天災。

  大事なよね姫をこれで亡くしてしまったようです。

その供養にと、千代は色とりどりの小袖を縫い始め、
それを京の町の若い娘に声をかけ着せては、渡していたようで、
これはすぐ噂になり、誰もが喜び受け入れる行為でした。
この噂は九州を平定中だった秀吉の耳にも届いたとか。
あの折り紙の「千代紙」の呼び名がここから来てるとか・・?

そして小牧・長久手の戦い以来、
尾張に引っ込んでいた家康が京にやって来ます。
そこで秀吉家康に、諸大名の居並ぶ前で、
自分にへりくだってくれないか」と、家康に頼みに出向き、
それで家康初めて秀吉に好感を持ったようで(?!)、
いきなり関白秀吉様である!とは言ってみても、
実質どこまでのものかを、家康のその態度で、
諸将に知らしめて欲しいという秀吉の思いを感じ取ったのでしょう。

その依頼のあった場で、
家康秀吉の期待以上のソレを見せました。

 是非ともその秀吉の着ている陣羽織をこの家康に下され、と。
 これはワシの鎧と同じであげられないと秀吉が答えると、
 もう関白様に鎧も兜も必要なく、それは仕える者に下され!

そんなこんな訳で、居並ぶ諸大名には効果抜群だったようです。

聚楽第が完成し、天子を招き、この天子様の次が秀吉である、
と世に知らしめる為の壮大な催しがありました。
この時、千代の縫った小袖も飾られる事になりました。
いわゆる「個展」のはしりで、千代が娘にコレを着せていた行為は、
言ってみれば「服飾デザイナーの売り込み」の様なものだった。
(と、ナレーションは語っておりました)

そして秀吉が言います。

  一豊は光成に知恵も及ばず、武功は清正の指ほどもないが

       しかしこの嫁だけは誰も及ばず、と。       

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司馬遼太郎の功名が辻・3

本日第3回だった訳ですが、
今日はウロウロしてて、チラチラだったんですが、

   どうやら本能寺の変が勃発

   そして中国大返し

   賤ヶ岳の戦い

の、流れだったようです。
大事な家臣を亡くし、それでもたったの500石の加増で、
もう嫌になって「浪人になる」千代に話しますと、

   浪人になるくらいなら出家せよ

と、ここまでキツクは言ってはないものの、言われてしまい、

   一豊、思いとどまる。。。。

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司馬遼太郎の功名が辻・2

今日が第2回でした。

  「司馬遼太郎の功名が辻

なんと朝の8時からやってるので、えー?なんですが、
私の場合よっぽどでない限り見れます。。。

  で、本日、

 

      馬買いました!!

 

  「10両で馬を買ったのではありません、
   
評判を買ったのです

さすが言う事が違います、旦那様より有名な奥様!?

このドラマ、現在の大河に比べて非常に明るい、
と言うか、(今の大河をそうそう見てないので・・・
「旦那さんの出世の為に妻は何をするか」なサブタイトルが?!

だもんでか、物語中のナレーションも面白いんです。
一豊に娘が生まれて、ちよに名前を付けてあげて下さいと頼まれ、

一生懸命に考えた割には「よね」という平凡な名前でした

と、ナレーションが言っちゃったりします。

あと非常に分かりやすい。

10両で今回馬を買いました。
10両あれば立派なお屋敷が3軒立てられると、
樹木希林さんが嘆くんです。。。そんな額なんです。
あと2000石は、現在の年収8000万?!になるそうで、
これで一族郎党の武具から衣食住、面倒見る訳です。
ここから参戦の為の経費もだすのかな、もしや。。。
更に信長に馬を褒められ200石加増されました一豊でした。

明日の第3回に続けますか。。。

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司馬遼太郎の功名が辻・1

ある日、

テレビ付けましたら、あれ・・・?何これ・・・、

     『司馬遼太郎の功名が辻』

こんな時間にこんなものが・・・・・と、
見てしまいましたら、意外にヒットな面白さ!
今日も見ようと思ったら今日はやってなかった訳で。
(金曜だからなぁ)

千代役が壇ふみさん。一豊は宅麻伸で、
昨日は秀吉の与力になった戦で頬っぺたに矢が!!!
ちょうど千代と一豊が結婚する場面辺りから鑑賞。。。

この秀吉の下に付く、と言うのも千代の助言があっての事。
この戦の前に町で秀吉に会います(まだ木下藤吉郎かな)
秀吉は「これはこれは、山内一豊殿の奥方では?」
と、わざわざ馬を下り、千代に挨拶したのです。
前の戦場での一豊の奮闘振りをえらく褒めました。

この事を千代は一豊に話しますと、
陣は違っておったがそこまで見ていてくれたとは、と。
またやはり上から声がかかると言う事は嬉しいもので、
こういう事も秀吉は良く分かっていたのでしょう。
本人でなく、嫁の顔まで覚え、馬を下りてまで挨拶できるなど、
並みでは出来ない事だと千代は思ったに違いありません。

しかし、この頃まだ少々名が売れてきた程度の秀吉に付く、
のはどうかな・・・と言った頃で、少々迷います。
しかし千代はおそらく、
秀吉について間違いないと踏んでいたかと思はれ。。。

同じ頃、祖父江とキチベエという一豊の腹心2名に、

もし一豊様が次の戦、秀吉殿に付くと言っても、
自分達もそう思っていた所だ、さすが殿様!

と言ってやってくれ、と。
2名も「今秀吉(サル)に付く?」でしたが、

そうあなた方が言う事で、
一豊は意識を高め、いい仕事をする事が出来るでしょう
、と。

こうして秀吉の与力となり、戦へ赴いた訳でした。

ちょうど一豊が戦で戦っている最中、
その時仏壇前で武運を祈る千代が、突然よろけた観音像を拾い、

    もしや一豊様に何か?!

(頬っぺたに矢が刺さり、それでも一命取り留めるという幸運が!
 そして、矢を放った武将の首を取ります。)

と、傍にいる樹木希林さんに必死の千代が尋ねると、
(実際豪華キャストなのではないかと思われます!)

 

   (はぁ?みたいな顔して)

「お拾いになったんならよろしいんじゃございません~?」

 

      さすが!!!みたいな。。。

そろそろ馬を買うような前振りな場面もございました第一回でした。

※この辺りの記事は2006年3月頃に、ka_akoが自ブログ(こことは別)で書いてた記事を移動してきたものです※

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